『フライの雑誌第56号』の内容の一部

多摩川水族館(31)多摩川源流部のイワナの産卵を観察する 中本 賢
 息子が繁殖期に入った。身長を著しく追い越されたのもつかの間、いつの間にやら顔には追星がプツプツと現れ始め、吻のまわりにも剃り残しのヒゲと思われる細長い物がチョロチョロするようになっている。
 行動のパターンにも怪しげな変化が現れはじめ、以前のような「意味なくフザケル」「ふつうに大声」といった分かりやすさは消え失せ、やおら部屋へ閉じこもり、ニタニタとこちらに背を向け長電話にふけるなどなど、その挙動不審もはなはだしい。
 客観的に、かつての己の姿を観察してみたい気もするが、息子にあらぬ誤解を与えグレられると困るので、さしずめここはしばらく我慢せねばなるまい……。
 だからというわけではないが、今年も丹波山のイワナの産卵観察と相成った。

鳴かず飛ばずの日々 島崎憲司郎 
 昨年は暗い年だった。FF関係の知り合いがまだ若くして次々に亡くなった。身近な友人が大病に冒されて死線をさまよう事態にハラハラする緊迫した日々が続いたこともあった。五十を越した自分の歳を思うにつけ、いずれも人ごとではなく、自身の来し方行く末についても色々考えされられる。それにまた目まぐるしく変わった世の中の流れ。社会の様々なシステムがあっけなく崩れて行く有り様を見聞するにつけ、結局今までのあれは何だったのかという白々しさを何かににつけても感じる年だった。馬鹿馬鹿しくなってくるわけだ。これが厭世観や先行き不安につながり、いかに小泉ライオンがラッパを吹けども景気はちっとも良くならない。株価は下がり、円は叩かれ、海の向こうではテロだ戦争だとキナ臭いことばかりだ。
 FFの方に目をやれば、どこもかしこもマンネリ状態。エキスパートと称する面々も、中にはちゃんとした人もいるが、相変わらずああしてはダメとかこうやらなくてはダメとか、元々ごく簡単なことをさも難しく言い回すのに余念がないセンセー方も御元気につつがなく営業中のようだ。古女房が鼻についてきたごとき閉塞感。どこもかしこも不景気風が吹きまくっている。僕は次第にFFの世界とは少し距離を置いた日々を過ごすようになっていた。FF自体から離れるというわけではないが、要するにこういう雑誌などにも極力出ず、ひっそりと鳴りをひそめて身を引いていたわけだ。

釣り場時評(35)有明海のノリ、諌早湾のギロチン、そして川辺川ダム建設問題について 水口憲哉
 川辺川の問題を海で起こっている問題から考えてみたい。
 一昨年の暮れから昨年の二月にかけて、九州西岸の五県、長崎、福岡、佐賀、熊本、鹿児島の漁民が漁場環境の維持のために次々と立ち上がった。まず、有明海のノリ養殖の不作問題であるが、これはこれまでの二十数年間多くの開発事業が有明海を痛めつけてきたことの結果であると断言できる。まず最初は、二十一年前の筑後大堰の建設運転による川水の有明海への流入減少と産業廃水と生活排水の流入増加である。それと同時に諌早湾の干拓埋立をはじめとする大小の護岸工事や埋立工事は干潟や藻場を消滅させ、有明海が自ら浄化しようとする能力を減少させた。さらに、有明海の北部、奥のほうは筑豊の炭鉱地帯であった。しかし、産業構造の変化で廃鉱となった炭鉱の海底下にある坑道は放置されるまま次々と潰れていった。結果として有明海各地で海底沈下が起こっていた。これはアサリ漁獲量減少のひとつの原因であると同時に、無酸素水塊を産み出すことにもなった。沖合い三キロ近くまで突き出した熊本新港建設もまた有明海の潮の流れを変えた。そしてここ十数年のノリの酸処理剤の大量投棄をはじめとする有害化学物質の流入などが複合的に影響して、有明海とその生物そして漁業が弱り切っているところへ、有明海の喉元に位置する諌早湾が閉め切られてしまった。干満による潮位差五〜六メートルと大きく潮の流れの変化する有明海において、諌早湾は肺のポンプのような役割をしていた。その機能がギロチンによって封じ込められてしまったために、栄養塩、淡水、海水、溶存酸素の流れが滞り、生物が生き難い水塊が有明海の真中を動き回ったり滞留したりした結果がゴカイなどの底生生物やタイラギ、アサリの大量死、そしてノリの色落ちといえる。それゆえ、諌早湾口に閉め切り堤を開放し、有明海を少しでも元の状態に戻してほしいという沿岸四県の漁民の声は切実なものである。

レオンの夏 備前 貢 
 ぼくらの楽園

 富士宮に引っ越してきてほんとうによかったなあ、と思うことのひとつに、五斗目木池(ごどめきいけ)のことがある。車で三〇分ほどのところにある小さな池だ。
 どっしりと広がり、ドカンとそびえ立つ富士山を横目でチラチラながめながら、長い坂道になっている国道をしばらくのぼっていく。そしてちょっと観光地にもなっている高原にさしかかったところで、くねくねと曲がる村道に入る。何度か川沿いを走り、橋を渡る。そのたび、チラッと川面に目を走らせる。たまに、でかいアマゴが釣れるらしい。
 村道は、ちょっとした林に囲まれた道へとつづいていく。家並みはまばらになる。緩やかなカーブのつづく木立にはさまれたいい雰囲気の道。
 すかさず、車のカセットデッキのボリュームを最大限に上げる。かけている曲は、いつも重低音が響くレゲエなので、小さなスピーカーが悲鳴を上げる。バコッズコッという雑音が入り、車内がビリビリふるえる。
 でも気にしない。
 富士宮にきてしばらくしてから、塗装業をしている優男のユウちゃんが、ぼくのためにほとんどタダ同然で車を手配してくれた。自分の車を持つのは大学生のころ以来だから十数年ぶりだ。だから、レゲエをがんがん鳴らして、はじめて五斗目木池に釣りに行ったとき、あまりの嬉しさに涙がこぼれた。
 村道をしばらく走り、目立たない曲がり角をいきなり曲がる。道は、いきなり山道へと変わり、ほとんど車の通らない細くて荒れた道になる。いくつにも枝分かれして山の奥へと延びている山道を、何回も曲がりながら進んでいく。きっと、一回きただけじゃ迷ってしまうだろう。
 道の脇には、人の気配が途絶えて、朽ちはじめている別荘がいくつもある。バブル時代の置き土産だ。どう見ても日当たりの悪そうな、湿気の高そうな土地に、一見して安物と分かるような材料で建てられたインスタントな別荘が寂しげに並んでいる。強者どもが夢の跡…。こんな荒涼とした土地に別荘を建てて、かりそめにも好景気時代を謳歌しようとした人たち…今何をしているんだろう。
 と、そんな別荘のわきを抜け、小さな沢を渡って、短い坂道をのぼると、いきなり広場に出る。
 そこに五斗目木池がある。大きなマスがうじゃうじゃいる、ぼくらの楽園だ。

土方のマサ 渡辺裕一
 しんしんと雪の降る夜だった。高校三年生のぼくはトリスのウィスキーを買いに、下宿から自転車で飲み屋街にある酒屋に来ていた。手に入れたトリスをアーミージャケットのポケットに放り込み、雪ですべる帰りの坂道で自転車を押していたときだった。坂の上からトレンチコートを着た大男が降りてきた。見覚えがあった。

 その四か月ほど前、高校の山岳部の先輩Nと街を歩いていたときに偶然彼に会い、Nに紹介されていた。
「マサ。これがいまのH高校の山岳部部長の渡辺だ」
「あ、どうも。工藤政道です」
 ぼくよりも四年上の山岳部OBということだったが、謙虚な挨拶だった。しかし、真っ赤なTシャツにブルージーンズという、一九六〇年代後半、青森の弘前という地方都市ではめずらしいイデタチだった。胸板の厚い、筋肉だけでできたからだにそれは似合っていた。縄文人の血を濃く受け継いだ、彫りの深い荒削りな顔が印象に残った。
 
 それ以来だった。

「マサでないかい」
「んだよ」
「H高山岳部の渡辺です」
「あ、覚えてるよ。ヒマだったら、一緒に飲まないか」
「ヒマです」

 それから、高校をかろうじて卒業するまでの四か月間、一日もかかさずふたりで飲み歩いた。ぼくはそのころ故あって北海道の実家を離れ、弘前の高校に越境入学をしていた。親の監視の目がないことをいいことに放埓な生活を送っていたのだ。で、毎晩、マサの行きつけの店を何軒か回るのだが、彼が支払っているのを見たことがなかった。すべてツケだった。しかし、あとから聞いたところではすべて踏み倒したとのことである。『アゲイン』という見るからに薄幸そうなママがやっているスナックがあったが、われわれ二人が毎日のようにツケで飲んでいるうちにつぶれた。『アゲイン』に再び行くことはなかった。