単行本『フライフィッシングの一年』171ページ「奥多摩通い」より

五年ぶりの谷

 その年の夏は暑い日が続いた。梅雨の末期に大雨が降って各地で川が氾濫したが、八月に入ってからは、夕立のほかに雨らしい雨はなかった。
 健二は夏に入る前にクルマを買った。自立して金を稼ぐようになってからの二年間に、ようやく格好のついた貯金をはたいたのだ。走行距離五万キロのライトバンで、四段マニュアル・シフト。色は白。中古車屋から、ナンバーがついたからいつでも取りに来ていいという連絡をもらって、大雨の中をその日のうちに引き取りにいった。その夏に、仲間たちと一緒に毎週奥多摩へ通い詰めるようになったのは、健二がこの白いバンを手に入れたのがはじまりだった。
 クルマには、ラジオはついていたがステレオはなかった。釣りの帰り道ならば、AMラジオだけでもよかった。野球のナイター中継が聞ければそれで満足だったのだ。けれども、釣りにいくときはステレオがほしかった。ピーター・ポール&マリーのハーモニーだとか、スコットランド民謡やアイルランド民謡を一緒に口ずさみながら、朝、釣り場に向かってドライブしたいというのが、かねがね自分のクルマを買ったらそうしたいと思っていたことなのである。
 それで、健二は釣り仲間のヒロに電話をした。
「そういうわけでさ、安いヤツでいいんだよ。どうせエンジンの音がうるさいんだからさ、高いのつけても意味がないと思うんだ」
「わかりました。とにかく今度の土曜日に店まで来てくださいよ。どれでも最低二割は引けますから」
 ヒロは東京都下・東久留米市にある自動車用品を扱う店でアルバイトをしていた。
「あ、それでさ。いま思いついたんだけど、そのあとで奥多摩までいってみようと思うんだ。どうせ釣れないだろうけど、夕方だけ、イブニングライズ狙いで」
 奥多摩にはたしかにヤマメはいるが、釣り人が多くてスレているから滅多に釣れるものじゃない。宝クジに当たるようなものさ…健二のまわりでは、こんなふうにいわれていた。そしてたしかに、何度か挑戦したにもかかわらず、まだ奥多摩で一匹のヤマメも釣り上げたことがなかった。だから、ついでさえなかったら、時期はずれとされる真夏に奥多摩へ釣りにいこうなんて、ほんとうに思いつかなかっただろう。
「一緒にいけないか? バイト何時まで…」
「ああ、それなら土曜日休みますよ」
 ほんの思いつきの誘いに、ヒロがあっさりと乗ってきたのでかえって心配になった。
「いや、無理につきあわなくてもいいよ。それにさ、ステレオだってつけてもらわなきゃならないし…」
 ヒロならば、休みを取るから朝から釣りにいこうといいだしかねなかった。
「ダイジョウブ。それはもちろん責任持ってつけますよ。だから、土曜日は一度、家まで迎えに来てください」
 ヒロの家は田無市にあった。田無も東久留米も、新青梅街道を奥多摩めざしていくと通過する土地だ。ヒロを迎えにいってからクルマにステレオを取りつけ、そのまま奥多摩まで足を伸ばすドライブ・ルートにはすこしの無駄もなかった。

 そういうわけで、健二たちの奥多摩通いは、八月九日の土曜日からはじまった。
 ヒロは、健二が選んだ安物のステレオを一時間もしないうちに取りつけてくれた。駐車場のアスファルトは熱く焼けていて、ジリジリ照りつける真夏の太陽に挟み撃ちされるので、立っているだけで眩暈がしそうだった。
「よし、これで完了。じゃあいきましょうか、オクタマ」
 ヒロのグレーのTシャツは、胸や背中に汗が黒く染み出て、まだらになっていた。午後三時を回っていた。
 健二とヒロは、それほど流れのよくない青梅街道を西へ向かった。窓を締め切ってエアコンの送風を全開にすると、すこしずつ車内の温度が下がっていって、汗が引いた。けれども、そうやって快適なはずの狭い空間に身を置いてみると、自分が夏から逃げ出したような軽い罪悪感があった。なんだかすこしもったいないような気もした。
 窓ガラスの向こうには、なお日差しがしぶとく照りつけていた。夏の午後特有の、やや黄ばんだ、空気を淀ませてしまうような光。焼けた肌に絡みついてくるような執拗さ。それが地上のあらゆるものに反射して溢れていた。見えるのは、真昼をやり過ごして安堵した、すこしくたびれた夏の午後のありふれた景色だった。中年の女性が、日傘の下で額の汗を拭いながら横断歩道をいく姿があった。緑の濃い畑に出会うと埃っぽい土の匂いがしてきそうだった。窓の向こうはたしかに夏で、健二はそのハードな季節を過ごすための健康も、それを楽しむことさえできる体力も持ち合わせているはずなのだ。
「健二さん」
 ヒロは、健二のことをそう呼ぶ。健二のほうが三つ年上なので、一応敬意を表しているらしい。
「ステレオ、聴いてみましょうよ」
 ヒロはまだ学生である。三年前に健二の友人の友人として知り合った。お互いに人並み以上にフライフィッシングが好きだったので、すぐに打ち解けた。けれどもふたり共通の友達は、そのあとに釣りをやめてしまった。つまり、彼はたくさんの若い女の子と知り合いたいと思ったので、釣りよりもっとチャンスがありそうなテニスやスキーをはじめ、そちらのほうが忙しくなり、金も回らなくなって釣りをやめたのだ。
 実のところ、健二にはそれがうらやましくもあった。健二も、ガールフレンドを捜していた。二回に一回はデートを我慢して釣りにいかせてくれる娘、できればそういうガールフレンドを捜していた。けれどもそんな条件を飲んでくれる女の子なんてそうそういるもんじゃない。なによりもまず、特定の女の子にアプローチするためのエネルギーと時間がすべて釣りに振り向けられてしまうのが問題だった。そういうわけで、健二とヒロは共通の友人の釣り道具を買いたたいて山分けした。そうして、どういうわけかいままで以上に仲良くなり、その夏のある暑い日の午後にエアコンの効いたクルマに納まって奥多摩に向かっているというわけだ。もちろんふたりとも、ごく普通のガールフレンドはいても、相思相愛の彼女はいない。
 健二はピーター・ポール&マリーのテープをプレーヤーに押し込んだ。夏の午後に聴くPP&Mも、曲によっては悪くなかった。特に「500マイル」はよかった。ひょっとすると、朝聴くよりもよかった。なんだか、自分たちまでが延々と辛い放浪をしているような気がした。どこかに辿り着くべき安住の地があって、いまはその場所がどこかわからないけれども、いつかはきっとそこにいくことができる。そんな気分になった。しかし、「悲惨な戦争」のような反戦歌だとか、なにかを訴えようとしている曲は、いつもより気が重くなった。

 武蔵野の平地は青梅で終わっている。青梅の市街地を抜けると、両側の山が迫ってくる。奥多摩の谷の入り口だ。その谷がいよいよ深くなるのは、さらに数キロ走って軍畑という地名に差しかかるあたりからになる。もっとも、そう感じるのは国道が一段高い台地から谷底へ下っていくせいで、そこまでいって川が見えた。水は澄んでいて、角度によって川底の石がよく見えた。
「いい流れだなぁ!」
 興奮した口調でヒロがいった。川はすでに深く谷を刻んで流れている。奥多摩は深い谷だ。多摩川は都県境を越えて丹波川と名を変えても、水源付近まで切れ目なく深い谷が続く。軍畑駅の下手で支流の平溝川が出合うあたりで、多摩川は川幅を大きく広げている。傾いた日差しの反射と、岩や谷の陰影を織り込んだ流れを見下ろしながら、右へ左へ緩くカーブする国道を下っていくと、川が近づいてきた。周囲を、夏の濃い緑に囲まれた。
 まだ五時を回ったところだった。予定していたよりも早くここまで来ることができた。そのために、もっと上流まで川の様子を見にいくこともできた。健二は五年ぶりだった。それ以前でも、決して数多くこのあたりへ釣りに来ていたわけではないので、釣り場についてあまり詳しくはなかった。ヒロはヒロで、クルマで一時間くらいのところに住んでいながら、奥多摩へ釣りに来るのはこれがはじめてだった。ふたりとも川の流れを目にした途端に落ち着きがなくなった。
「とりあえず、今日はこのへんでやってみてもいいんじゃないですか」
 声をすこし上ずらせて、ヒロがいった。その気持ちは健二にもよくわかった。中学生のころに、隣のクラスの片思いの女の子と廊下ですれ違ったときの気分に似ていないこともない。こうなるともう、釣れようが釣れまいが竿を持って川原に降り立っていないと、落ち着くことなどできなかった。
「そうだな、ここらでやってみるか」
「決まり、決まり。どうせあっちもこっちもできないんだから」
 ヒロのいうとおりだった。イブニングライズは、日が沈んでから真っ暗になるまでの間にサカナが水面付近の餌を捕るために水面近くまで出てくる習性で、それに狙いをつけて釣る。サカナが水面付近の餌を捕ってバシャバシャ飛沫を上げている時間は短いと五分、長くても三十分以上続くことは滅多にない。だから、イブニングライズを狙ってあっちもこっちも釣ることなどできないのである。ヒロはいつも自分の意志をストレートに主張するから、意見が合ったときの行動は素早かった。軍畑の駅を過ぎたところにある、道路脇の駐車スペースにクルマを停めることにした。
 はじめて入る場所なので、どういう状況でも困らないように、健二は腰まであるナイロン製のウエイダーを履いた。この陽気に通気性のないナイロンを身に着ければどうなるかわかっていたが、目的のための自己犠牲には、わりと無頓着だった。汗まみれになろうと寒さに震えようと、疲れてへとへとになろうと、いい釣りさえできればすこしも苦痛と思わないところがあった。しかし、報われなかったときには、わざと苦労を背負いこんだ自分に嫌気が差すこともあった。ヒロは健二とは違っていた。くたびれた綿のパンツに履き代えて、足元をフェルト底のウエーディング・シューズで固めていた。この方が、冷たい水に長く入っているのでなければ軽快だし、なにより涼しい。
 健二が覚悟していたように、腰までのウエイダーはひどく蒸れた。昼間の熱気をたっぷり吸い込んだアスファルトの上で足を通した瞬間から、蒸し暑さにまとわりつかれた。川原を歩いていたら、五分もしないうちに下半身だけ蒸し風呂状態に違いなかった。しまったな、と思っていると、見透かしたようにヒロがいった。
「健二さん。このクソ暑いのにそんなの履いてると、またインキンになりますよ。聞いてますよ、学生時代までインキン持ちだったって」
「オマエ、そういうくだらないことはよく知ってるな」
「そんなもの、復活してもありがたくないよね」
「それをいうなら再、再、復活だよ」
「へえ、そんなに」
「はじめてのは、高一のときサッカー部の仲間からもらったんだ。復活したのが高二。再復活が、たしか大学一年だ。よく覚えとけ」
「やるなぁ…」
 ヒロはすこし呆れたふりをした。
「でも、オマエも高校時代柔道部だろ。経験ないわけないよな」
「…いや、オレは、一度復活しただけですよ。もっとも、仲良し期間は長かったけど」
 健二がヒロと話すことの半分以上は、こういう会話だった。つまり「バカ話」ということだ。その話題は、お互いにいまどれだけ関心があるかということに大きく関係していて、つまるところ、ほとんどはオンナの話であり、釣りの話であり、過去の誰かの失敗談や自分の自慢話だった。
 国道のガードレールに一メートルくらいの切れ目があって、そこから谷へ下りる小径がついていた。小走りに下っていくと薮があり、そこを抜けると、目の前に大きな岩が現われた。その向こうに川があった。多摩川は狭い谷底いっぱいに流れていた。健二は岸辺に立って上流と下流を見渡してみたのだが、どちらにも点々と大きな岩が配置されていた。川原らしい川原はなかった。下流には荒い瀬が続いていた。どちらかというと上流の方に、どこを釣ればいいかわかりやすいスケールのある釣り場が続くように見えた。


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