〝遊び〟と〝獣害〟をフライフィッシングが止揚する。

昨日のNHK「クローズアップ現代」は〝ハンターが絶滅する!?~見直される“狩猟文化”〟だった。

いまが狩猟ブームなんだとは知らなかった。猟師といえば名高いかつての阿仁マタギや打当マタギを想起する。では番組に出ていた、〝食べるために時々猟をする〟あるいは〝駆除するために乞われて猟をする〟人たちと、猟師ってなにが違うんだろうか。

クロ現に出演していた『ぼくは猟師になった』著者の千松信也氏は昨夜(2/14)、ご自身のツイッターでこう言っている。

鳥獣害対策を前面に出した感じでの狩猟者育成という動きには違和感がある。結局、農地や街の生活、都市住民の好む「豊かな自然」を守るために猟師がコマとして使われるイメージ。僕は自分が捕りたい獲物を捕り、捕れと言われたら捕らない。自然の中での立ち位置は、自然と相談して自分自身で決める。@ssenmatsu

千松氏の「自然と相談して自分自身で決める」という言葉には棘がある。千松氏の肩書きをNHKは「猟師」としていた。ここは微妙なところで千松氏は職業的猟師ではない。著書でも「仕事は別にある」と明記している。「猟師」というワードは単行本版元のプロモーションであり、NHKのキャッチコピーである気がする。

現代日本においては、川漁師が絶滅危惧種であること以上に、野生鳥獣の猟で家族を養い生計をたてることは不可能に近い。野生鳥獣の肉は法律の制限で通常の食肉ルートにはのらない。番組中でも殺したシカをそのまま山に埋めていた。有害鳥獣の駆除で手間賃をもらうことにマタギのような〝山の神への感謝〟や〝誇り〟を持てるはずもない。育成された猟師は「都会生活者のコマ」という千松氏の言葉は重い。

フライフィッシングでは、いろいろな鳥や獣の羽や毛をフライタイイングのためのマテリアルに使う。飼い犬の抜け毛を使うこともあるが、たいていは鳥や獣を殺して、さばいて、なめしてマテリアルにする(ほとんどの釣り人は商品としてパック詰めされたものを買ってくる)。フライフィッシングはもちろん職業ではないから、釣り人は自分たちの〝遊び〟のために、生きている動物の命を奪っていることになる。

とはいえ、たかが遊びのために人生を賭けることもあるのが、人間が他の生き物とは決定的に異なる点だ。ことにフライフィッシャーには、釣りをしなくちゃボク生きている意味がないなどと真剣な眼差しで熱く語る人がままいたりして、ヘンタイ系フライフィッシング専門誌の編集者としては、〝人間の業〟というものを思い知らされることが多い。

そして現代日本で野生鳥獣を捕りたいからという理由で捕って肉を食うのも、同じく〝人間の業〟に他ならない。自分も自然の一員のくせに自分だけ自然界から切り離して考えたがる生き物は人間だけだ。それこそがまさに〝業〟なのだ。

いますごく売れている『フライの雑誌』第98号の〈シマザキ・ワールド13〉には、『水生昆虫アルバム』著者の島崎憲司郎さんの桐生のご自宅に、フライマテリアルとするためのクマやらシカやらフクロギツネやらの毛皮が何本もブラブラとぶら下がっている写真が掲載されていた。女友達に「この家、ケモノ臭くない?」と言われたというエピソードが紹介されている。島崎さんは本文中で〝タイイングスペースの周囲にも常時7〜8頭ほどブラ下げてある。…「百まで生きても一生使う分はあるな」と脂下がりつつ傍らの毛を撫でたりする充足感! ケモノ臭い云々ぐらいは全然何ともないのだ。〟と高らかに謳っている。

また、同号では川崎市から九州宮崎に移住して一年になるフライタイヤーの牧浩之氏が、ワナ猟の免許をとって地元のキュウシュウシカを狩り、自らさばいて毛皮をなめし、フライをタイイングして大ヤマメを釣り上げる記事もあった。つい最近牧氏は、宮崎ローカルのテレビ局から長時間の取材も受けたらしい。テーマは有害駆除の鳥獣をフライマテリアルに活用して地域活性化につなげる可能性についてだったとか。〝遊び〟と〝獣害〟をフライフィッシングが止揚する未来がそこに見えてくる。

おのれの遊びへ真剣に対峙する人は、けして他者のいのちを弄ぶことそのものを遊ばない。それぞれが勝手に真剣に遊んでいれば、殺し合いの戦争なんか起きるはずもない。

人生たかだか100年。命果てるその時まで命がけで遊ぼう。命より大切な遊びを邪魔するものは、それこそ命がけで排除するのみである。(違うか)

『フライの雑誌』98号 特集「シマザキ・ワールド13」
『フライの雑誌』98号 特集「シマザキ・ワールド13」